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● 正しい教えを知らないで百年生きるよりは、
正しい教えを聞いて一日生きる方が勝れている。 ● 眠らぬ人には夜が長く、疲れた者には道が遠く、 正しい教えを知らない人には、その迷いが長い。 ● 教えを喜ぶ人は、心が澄んで、よく眠ることが出来る。 教えによって心を洗われるからである。 |
「新訳仏教聖典」 法蔵舘より
観世音 第16号 (昭和39年7月18日)より抜粋
~ 宗教とは元来、抹香くさいものだけではない ~ |
大学の生協で買った120円の入場券を持ち、映画‘鮫’(真継伸彦 原作、昭和38年文芸新人賞)を見た。 「求むるものは何か」と叫ぶサメの中に「如何に生きるか」と迷う僕自身を見た気がした。 それには僕自身があまりにもめぐまれてきたことに思い当たらないではいられなかった。 戦中に生まれ育った僕を不自由な思いをさせたくないと両親は育ててくれたが、不肖の僕は「如何に生きるか」などと迷っている。 映画の田坂監督は宗教的な扱いをしたくないとの前提であったと聞くが、むしろ純真と言える一青年サメを通し、宗教の根本を描いているように思えた。 (昭和39年7月3日 慧誉25才)
観世音 第15号 (昭和39年5月18日)より抜粋
護摩 とは、梵語のhomaのことで、梵焼と意味する。
智慧の火で迷いの薪を焼くことを意味する密教の修法。
インドでAgni(火神)を供養して魔を除き福を求める為に行われた火祭を
仏教に採用した。不動明王や愛染明王などを本尊とし、
その前に儀則に基く護摩壇を置き規定の護摩木を焚き、
火中に穀物等を投じて供養し、災を除き(息災)、幸福をもたらし(増益)、
悪を屈服する(降伏)ことを祈願する。
観世音 第14号 (昭和39年3月18日)より抜粋
~ 仏教の他者への愛を究極の姿 ~ |
つまり私が誰にどれだけのことを等という条件を意識しないで
他者を幸せにする無条件の大愛が説かれている。
観世音 第13号 (昭和39年1月18日)より抜粋
~ 一口に花といっても牡丹、百合、薔薇、たんぽぽのように |
私達は今一度じっくりと自分というものを見極め、その持前を知り、
賢なりともそれに溺れず、我も人なり彼も人なり、 愚なりとも悲しまず、
人という一つの立場で、各自の持前を発揮して 持ちつ持たれつ、
家庭、社会をしっかりと守りましょう。
寿徳寺 第23代住職 新井正誉
観世音 第12号 (昭和38年11月18日)より抜粋
静坐のすすめ |
観世音 第11号 (昭和38年9月18日)より抜粋
~ 道は(語るべきものではなくて)踏み行くべきものである ~ |
道林禅師や釈尊は言う。
‘ 善悪を弁別するのは少年にも容易だが、悪行を斤けて善行につくことは
白髪の老人にも至難のワザである’
‘髪白きこと尊からず、徳高きを以って尊し’
‘教えを説くこと尊からず、法を行ずること尊きなり’
批判が先行して実行が後退している現在の様子を過去から指摘されてるようだ。
福性寺 先代住職 田久保周誉 師の言葉
観世音 第10号 (昭和38年7月18日)より抜粋
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~ 百聞は一見にしかず ~ |
寿徳寺では法事で檀家の皆様と朝暮勤行法則を読経します。
今まで読んだことがなかったという檀家の奥さんがやってみたら。。。
意外とわけなく出来て、
今まで無縁だと思っていた仏教経典が身近に感じられる、と連絡がありました。
朝暮勤行法則をご希望の方はお知らせください。
お送りいたします。無料。
観世音 第9号 (昭和38年5月18日)より抜粋
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~ 私達は他からの助けで「生かされておる」という事は |
私達が生きている事実は取り巻くすべてのものの
「助け合い」なくしては不可能で
そこに感謝が生まれ、人と人との付き合いがあらわれ、
道徳が出来、物を大切にする考えが生じます。
三念寺住職 清水淳誉 師の言葉
観世音 第8号 (昭和38年3月18日)より抜粋
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~ 理性では知ることができないことがある、 |
仏教もキリスト教もイスラム教も神道も長い伝統に支えられ、
どれも目指すは人間の幸福であるのでしょう。
それぞれ山頂へ登る道が違うだけにすぎない。
山頂とは真理のことで仏教では悟りと表現する。
疑いがなくなり、心が静まるということである。
つまり、知るとか知らないという段階を乗り越えた‘執らわれない’状態のことである。
観世音 第7号 (昭和38年1月18日)より抜粋
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~ 仏教は宗教である。しかし宗教は仏教でない ~ |
自分は何も信じていないから、仏像に手を合わせないし、お賽銭をあげない。
つまり私は無(非)宗教な人間である、という日本人は多い。
仏教とはそのように形にとらわれた宗教ではありません。
仏教は奥深く崇高なもので「自覚する」ことなのです。「自らを覚す」とは
関心をよせ、疑問や意識を持つことからはじまります。
自分自身に疑問を感じ、己を省みる。
ぶつぶつと理屈をとなえる前に、正しい行いの実践が大事であり、それが仏道です。
昭和37年9月から11月、門前掲示板にかけられていた慧誉和尚が選んだ言葉
| 昭和37年9月23日~28日 |
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山中の賊は敗れやすく、心中の賊は敗りがたし |
| 昭和37年11月5日~15日 |
善いことは他人はしなくとも自分がすればよい |
| 昭和37年11月16日~26日 |
十人の上に立つ者は十人の下に、百人の上に立つ者は百人の下に |
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※観世音第6号(昭和37年11月18日)参照 |
観世音 第5号 (昭和37年9月18日)より抜粋
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~ 言葉は人の意思を伝える便利な道具ですが ~ |
あくまで道具なので、語る人、聴く人によってその意味するところは
いかようにも解釈出来、相手次第で誤解をまねくことがあります。
よって不完全と言えましょう。他人の表現せんとすることは
出来得る限りその人と同じ気持ちになって感じる(=観じる)ことが
大切であり、これは仏教の‘悟り’へ通じるものではないでしょうか。
観世音 第4号 (昭和37年7月18日)より抜粋
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釈尊は‘一切のことをみずから知った’ |
マッジーマ・二ヤーカというお経の中で、
釈尊は‘一切のことをみずから知った’と述べてます。
仏教とは、人間釈尊が現実の人間をあるがままに見て、実践的存在としての
人間の理法(dharma)を体得し、克ち得た‘ものの考え方’であります。
仏教は死者だけのための宗教ではなく、現在生きて生活しているあなたのものです。
観世音 第3号 (昭和37年5月18日)より抜粋
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本当の自由とは、自覚された自由 |
自由だから何をしてもいいということは、裏を返せば何をしていいかわからないということ。
・ 帰(き)すべきところがない
・ 場所が見つからない
心の眼(まなこ)を開けて自分が生かされていくだけではなく、他人をも生かしてゆく。
それが、正しきダルマ(dharma)なのです。
観世音 第2号 (昭和37年3月18日)より抜粋
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私達の経験するあらゆるものが 『 無常 』
~ 人がこの世に生まれた以上「死」というポイントに向かって 強制的に行進をさせられているのです ~ |
仏教の開祖釈尊は生まれながらにして人間であり、我々と同じだったのです。
従って、人生の悩みや死への恐怖も同じでした。
釈尊が修行の結果 「気付いたこと」 を 「教えた」 のが仏教のはじまりです。
観世音 第1号 (昭和37年1月18日)より抜粋
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釈尊を神格化してはいけないのです
私たちは、釈尊の教えに帰依するのであります All is vanity |


